渡りたくなる島 鹿児島県長島町
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島津忠兼の長島攻略

長島町の城川内というところに、堂崎城という城跡が今も残っています。国道筋から海の方を見ると、海に突き出た岬が見えますが、ここが堂崎城跡です。堂崎城は長島氏が遅くとも南北朝時代には整えたと考えられ、長い間、長島氏の居城でした。

堂崎城では大きな戦さがありました。それは永禄8年(1565年)のことです。その頃、堂崎城主は天草越前正(えちぜんのかみ)でした。堂崎城を攻めたのは野田の島津常陸主(ひたちのかみ)忠兼という人です。忠兼は野田の領主でしたが、野田だけでは領地が狭いので長島を手に入れたいと考えていました。長島にはいい港が多く、長島を手に入れると貿易もできるので欲しかったのだと思われます。

汐見海岸に軍勢を上陸

そして、いよいよ長島を攻めることにし、永禄8年3月23日、長島町の南部にある汐見海岸に軍勢を上陸させました。この動きを察知した堂崎城軍がこれを迎え撃ったため、戦いが始まりましたが、島津忠兼は軍勢を田尻の上の国見ヶ丘まで退却させ陣を立て直し、決着がつかないうちに夜になりました。これを見て、堂崎城軍も城に引き上げました。

堂崎城に攻めかかるその夜、島津忠兼の軍勢は暗やみの中を城川内まで進軍してきました。島津軍が集合したところは現在の長光寺の付近といわれています。そして、翌日の24日、まだ夜も明けきらないうちに、一気に堂崎城に攻めかかりました。一方、堂崎城では、女や子供まで城にたてこもり、必死に戦いましたので、大変激しい戦いとなりました。そこに島津氏と親戚である天草の志岐氏や栖本氏の軍勢も到着し、島津軍を応援しました。

堂崎城主天草越前正

「衆寡(しゅうか)敵せず」という言葉があります。つまり、数の多い者には勝てないという意味ですが、ここに至り、さすがに堅城といわれた堂崎城もついに落城したのです。
堂崎城主天草越前正は、「降参(こうさん)を口にするは武士の卑怯(ひきょう)」といって、切腹して果てたといわれます。

ご八日踊り(ごようかおどり)の始まり

ご八日踊りの始まり

この戦い以後、長島は島津忠兼の領地になりました。ところが、堂崎城の落城から3ヶ月後の7月8日、忠兼は甥である出水の島津義虎によって、だまされて殺されました。そして翌年には、長島や野田で悪い病気が流行して、たくさんの人が死にました。医学の発達していない昔のことです。当時の人々は、これはきっと忠兼のたたりに違いないと思いました。そこで、忠兼の命日の7月8日におどりを踊って、忠兼の霊を慰めることにしました。これが、ご八日おどりの始まりと伝えられています。

今日では新暦の8月8日に、長島最大の伝統行事として受け継がれています。また、汐見と堂崎城跡には島津忠兼をまつる若宮神社も建てられています。